ワタクシ的大平農園とは、、、

 確実に篤農家(読み、トクノウカ。意味、すごい農家。篤農の反対は駄農。)です。
 まず、先代の話。おとうさんの書いた本や、おかあさんに聞いた話によると、日本で初めてビニールハウス栽培を始めた農家だったり、農薬を含めた新しい技術を誰よりも早く取り入れたり、遠くの農家が大勢で観光バスで見学に来たり、、、そんな農家だったそうです。
 初めは、聞いただけの話だったので、(確信がなければ全てを信じるわけにはいかないので)100%信じるわけにはいかなかったけど、昨年、非売品かもしれないけど、明治神宮の記念誌を見た時に、「これは本当だ!」と確信しました。
 それは、、、。勤労感謝の日(だったかな?)に明治神宮には農産物で作られた宝船が奉納されます。それは大平家の先代が始めた(または続けた)そうです。それも一人で!戦後、国民も農民も意気の落ちていた時、そんな時にやったそうです。それをやるにはいろいろな気持ちが含まれていたことでしょう。そういう事があって、明治神宮の記念冊子には民間人ではただ一人、大平家の先代が、集団ではなく、個人として紹介されてました。先代がアップで紹介されているのを見て驚き、同時に全てが本当であると確信しました。
 世田谷にあった事も影響するのか、当然、国の要人とも付き合いがあったようで、心技両面において農家を引っ張るような篤農家だったようです。
 そして、今年、先代にお世話になった方がよく大平農園によく来られては馬にも勝る勢いで(昔の方は凄いんです)作業なさっていきます。先代もはTAのさんも熱い方と容易に察する事ができます。
 そんな農家が何で無農薬無化学肥料栽培の農家になったのか?、、、そう思う人もたくさんいるでしょう。当然な事です。
 一言二言では言えないような理由でしょうが、例えば、「季節外れの野菜を作って初めは高値で売れてもそれを皆が真似をして、また、違う作物を季節外れに作る。すると皆がして値段がさがる。結局イタチごっこ。、、、結局、意味ないんじゃないか。」とか、「どんどん薬を使って野菜を生産していったが、結局、残された者から見れば、その農薬のせいで先代が死んでいった。そんな薬を使った野菜が体に良いわけがない。」とかのようです。
 先代が体を壊し、亡くなっていくのを傍らで見ているしかなく、、、そして、先代がなくなり、そして、みんなで考えて、無農薬無化学肥料栽培にしたそうです。
 やはり、無農薬無化学肥料栽培に移行した時はなかなかうまくいかなかったそうで、はじめは管理する面積を1反から始めたそうです。反面ただ昔の様にやるだけ!だったそうです。それから若葉会設立、現在と続くそうです。
 私が農業を志し、農業界を渡り歩き、そして大平農園に辿り着いた時には既に大平農園では無農薬無化学肥料栽培を始めて30年(だったかな?ま、とにかく昔からやってるんです!)。それも生産から消費、生産者&消費者、私は思い描いていた理想の1つ形が既に完成されて久しい状態。やはり、農業の基本を変えても大平農園はやっぱり篤農家!だと思いしらされました。
 これが、私の思う大平農園(&大平農園を中心して集まる皆さん)です。
 はっきり言って、今の大平農園には、普通の農家にある、機械のように働く空気や姿はありません。が、そこには何か大切なものを感じ、それを感じる人たちとでも言うのか、おとうさんおかあさんのオーラに触発された人たちとでも言うのか、(広い意味)テキトーな人たちが集まってくるようです。

'031023

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